関西大学と日本の近代化 ―千里山キャンパスの誕生―

北千里行きの阪急電車に乗って車窓から外を眺めていると、豊津駅を出発した途端、視界がパッと広がります―左手の丘には整然と住宅が並び、やがて右手には森のような風景が迫り、電車は間もなく関大前駅へ。

駅を降りてすぐの場所に門を構えるのが、関西大学千里山キャンパス。2022年には開設100周年を迎えます。もともと大阪市内にあった関西大学は、なぜ千里山にキャンパスを構えることになったのでしょうか。そこには日本の近代化が深く関わっています。

自然の秀麗 千里山

学歌で「自然の秀麗 人の親和…」と歌われているように、自然豊かな千里山の地にキャンパスを構える関西大学。設立当初は大阪市内に校地を構えていましたが、のちに千里山へと場所を移しました。その経緯をたどってみましょう。

関西大学は、1886年11月4日に関西法律学校として産声を上げ、1904年には専門学校に、1905年には私立関西大学として歩みを進めていきました。その後、1918年に公布された大学令により、それに準拠し昇格できない大学は「大学」の称号を返上しなければならなくなりました。当時の関西大学は大阪市福島にあり、福島学舎の広さではその条件を満たすことができず、郊外に広大な校地を探していました。

当時、関西大学の理事であった柿崎欽吾氏は大学昇格運動には大阪財界の支援が必要と考え、当時大阪商業会議所の会頭だった山岡順太郎氏(図書館前に像がありますね)を関西大学の総理事に迎えました。


それは、ちょうど阪急千里線の前身である北大阪電気鉄道が十三~千里山間に新たな路線を引こうとしていた頃で、関西大学の評議員で吹田の有力者でもあった大鐘彦一氏(北大阪電気鉄道設立者の一人)が千里山の土地を校地に推薦し新たな校地としたのです。

関西初の田園都市・千里山の誕生

当時の大阪は「大大阪」と呼ばれ、大阪市周辺に都市化が広がりつつありました。千里山に惚れ込んだ山岡氏、柿崎氏は千里山での住宅開発をめざし大阪住宅経営株式会社を設立します。そこで、彼らはイギリス・ロンドン郊外に作られた世界で最初の田園都市「レッチワース」を手本とし、千里山を東京の田園調布に並ぶ関西初の本格的田園都市として開発したのです。

現在も住民に愛される千里山のシンボル・第一噴水から放射状に道路が広がっていく様子は、レッチワースの街区を模したもの。千里山は当時の最先端の都市計画により誕生したのです。

当時の千里山住宅地平面図。噴水の広場を中心に放射状に広がる街の様子がわかる

関西大学の総理事山岡氏と専務理事柿崎氏が社長、専務取締役であることから、関西大学と大阪住宅経営株式会社との関係は自ずと深まり、千里山は相乗的に発展していくことになります。

ちなみに、千里山キャンパスで最初に完成したのは予科校舎(現在の岩崎記念館辺り)で、1922年5月1日から授業がスタートしました。それから1カ月後の6月5日、文部省(現・文部科学省)から大学昇格が通達され、関西大学は名実ともに大阪唯一の私立大学となりました。だからこの日を「昇格記念日」とし、今も大切にしているのです。

関西大学、遊園地が千里山のさらなる発展の礎に

朝、大阪市内に通勤客を送り届けた帰りに大阪市内から学生を連れて戻る…関西大学が千里山にキャンパスを置くことは鉄道会社にとっても合理的でした。これは先を見越した一種の投資とも言えますね。

関大生たちで混雑する大学前駅のホーム

しかし、平日は通勤客と学生を見込めても、休日はどうするのでしょう? そこで考えられたのが、休日に人が集まるような場所を千里山に作ることでした。関西大学と千里山住宅街に隣接し、現在の関西大学第一高等学校・中学校・幼稚園のあたりに千里山花壇(後の千里山遊園)というレジャー施設が開園し、休日は多くの客で賑わいました。現在も、第一高等学校・中学校正門から100周年記念会館に続く歩道が当時の面影を残しています。

関西大学、千里山遊園、千里山住宅街の位置関係がイメージできるイラストが残されている

千里山遊園の飛行塔。奥に見えているのが関大の予科校舎。こんなに近くに遊園地があると、毎日遊びに行きたくなってしまいそう!

当初、関西大学が校地として選んだのは、北大阪電気鉄道株式会社が所有していた豊津村垂水の土地でしたが、同社から校地変更の打診があり、交渉の末、関西大学は敷地を広げて現在の場所(第1学舎付近)に落ち着くことになりました。

郊外に住宅地を開発し、その近くに学校や病院など公共性の高い施設を設置し、起点や終点には遊園地や商業施設を設ける。こういった沿線開発の手法は阪急商法と呼ばれ、阪急電鉄創業者の小林一三氏が手掛けたことで知られています。大阪梅田駅にある日本初のターミナルデパート阪急百貨店や宝塚駅周辺の宝塚新温泉や宝塚歌劇はその好例でしょう。

街の成り立ちや手掛けた人の思いを知ると、何気ない車窓からの風景が違って見えるかもしれませんね。

【コラム監修】関西大学博物館(年史編纂室)学芸員・年史編纂委員会委員 熊 博毅